本部通信 2016年8月
私は、東真同の発足からの歴史と会員数が漸減している現況への推移を考えるとき、それは東京という首都圏の街の変態の経緯と軌を一にしているのではないか、との訝りに捉えられることがあります。
私は世田谷の在で生まれ育った一応東京人です。この間古井由吉さんの『東京物語考』を読む機会があり、それに併せて永井荷風の『日和下駄』を再読しました。私の故郷東京は、1945年3月、5月の大空襲の被害も少なく、陸稲、麦、野菜の畑が広がり、その間を縫うように春の小川に歌われるような細流れのある所でした。『日和下駄』では、「山の手を蔽ふ老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝であろう」と記されています。さらに基角から、「江戸名所の中唯ひとつ無疵の名作は快晴の富士ばかりだ」とも引いています。東京の至る所にある富士見町から今富士は見えないでしょう。『東京物語考』では大正、昭和初期の東京の山の手の崖地や谷地にうごめく人間模様を当時の小説がしっかりと書きとめているとあります。そこには人々の暮らしがあったのです。
私の故郷東京は、1964年に完全に消失してしまいました。1963年の秋、高校1年生の文化祭で何人かの級友と、翌年の東京オリンピック反対の掲示板を掲げたちょっと気恥ずかしい記憶があります。当時問題になっていた大気汚染、多摩川の水質汚濁、下水道の不備などなどを置き去りにして、何がオリンピックか、という気持ちと生意気な天邪鬼の気持ちとが入り混ざったような行動でした。残念ながら東京はその後長い間本当に公害問題を抱え込む街になってしまいました。
以前東京の家屋は小さくてウサギ小屋のようだと揶揄されたことがありました。今東京では都心から郊外の丘陵地までさらに小さい住宅と1Kの奇麗な集合住宅がひしめき建ち並んでいます。ウサギ小屋より小さいそれらの家屋や部屋は何小屋と呼ばれるのでしょうか。
私は自宅から練馬まで地下鉄を利用します。なぜか地下の暗闇が落ち着きます。ふと暗いトンネルに首を向けると、窓ガラスに白髪混じりのメガネをかけた萎びたネズミ顔が映り、こちらを見て口をすぼめて「ナムアミダブチュ、チュー、チュー」とつぶやいている。はっとして顔を戻すと、狸と狐が手をつないで微笑み合っている。しっかり目を閉じて見直すと、中年おやじと妙齢な女子でした。もう一度しっかり瞼を閉じて、「ナムアミダブツ」とつぶやくと、その昔上を走っていた路面電車からの故郷の景色が鮮やかによみがえります。
東京が江戸のとき、農民や職人、町人、武士たちの100万人都市でした。明治から戦後そしてオリンピックまでは、工員、事務員、農民たちの街でした。1964年、人口が1,000万人になりました。しかし人々は、朝食と夕食は家族で摂っていて、家での暮らしがありました。第1次・第2次産業従事者が事務・サービス業従事者に入れ替わりました。長時間労働とパート労働者の出現で24時間明るく働く街、東京になりました。しかし、家族の食事はなくなりました。まして増え続ける単身者や独居老人に暮らしがあるのでしょうか。
東京にはもう凡夫や衆生と自覚する暮らしがなくなってしまったのではないのか。六道輪廻の輪が壊れ、地獄から修羅までのブランコが動いているだけではないのか。衆生がいなくなって念仏は馬耳東風に流される。何が東京を変態させるのか。
1923年「東京ラプソディ」で、「・・・夢のパラダイスよ花の東京」と歌われました。歌は、戦争があっても公害があっても歌いつがれていました。東京の裏側のリオではオリンピックを迎えるのに、「ようこそ地獄へ」と叫んでいます。2020年東京では、まだ「夢のパラダイスよ花の東京」と迎えるのでしょうか。東京の8月はまさに灼熱地獄なのに。
衆生もいない蓮華の花も咲かないセメントの上塗りの街。いつからこんな街になってしまったのか。私はやはり始まりは1964年だと思っています。あれから50数年、2020年へ「総活躍でおもてなし」。東京とともに変態しただろう天邪鬼の老人はまだ掲示板を作れるのか、もうそんな純真な元気があるのだろうかと爪を噛んでいます。
東真同の50数年も東京の変態の時間の流れに翻弄されてきたのではないでしょうか。しかしまた、宿業因縁により「東京」で生きる悲しみの共感にこそ念仏が本当に相応するのでは、と真夏の夜に迷想は果てもなく続きます。
(城南地区会 鈴木 稔)