本部通信 2017年1月
東京真宗同朋の会会長矢野 伸芳
新年おめでとうございます。
新年早々やや暗い話題になるかもしれませんが、芥川龍之介は自死する前、友人に宛てた手紙の中で新聞記事に掲載された自殺の動機として病苦、精神的苦痛などがあげられていることにふれ、「・・・少なくとも僕の場合は唯ぼんやりとした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である。」という言葉を残していることはご存じの方も多いと思います。芥川は自分自身の心境について述べていることは勿論ですが、そこに自分を取り巻く社会状況、その将来をも含めての「 ぼんやりとした不安」と解することもできるのではないでしょ うか。
今月に就任するアメリカのトランプ新大統領の言動、欧州における右派勢力の台頭、わが日本の政治を始 めとする社会状況をみると、まさに表題のように崖っぷちに向かう「ぼんやりとしたある不安」を感じざるをえません。
作家の赤坂真理氏はその著書 『愛と暴力の戦後とその後』の中で、「私の国には何か、隠されたことがある・・・(中略)・・・私は戦後の典型的なものたちが、風景を埋めていくときに育った。誰かが何かを忘れようとしていた。誰もが何かを忘れようとしていた。でも、それが何かを私も問おうとはしなかった。今思い出してみて驚くのは、本当は隠されてはいなかった、ということだ。そこに在るのに、見えないようになっていたものがたくさんあった。在るのに見えなかったのは、なぜ?それは何?亡霊?あそこに何が、いたんだろう?」ー
と書かれています。この直前には 「・・・遠くから電気が高圧線リレーで送られてきて、清潔で「文化的」な生活が配られ、コンクリ-トで固められた中で、それを受け取ってきた。そこからとり残されることを、まるですべての日本人が恐れたかのようだ。・・・でも、あの電気は、どこから来ていたんだろう?考えたこともなかった。2011年3月11日まで。」という記述があります。
そう、私たちは「見えていない」のに「見えている」と錯覚 してきたのかも しれない。その「つけ」が今きているのかもしれない。
仏法を聞いていくという生活、しかしその根底に歩みよる「不安」も見据えていきたいものです。
本年もともに開法をしてまいりましょう。 合掌