本部通信 2019年4月
東京教区報恩講企画会委員の役割も6月に終わります。
企画会の吉岡チーフは沖縄差別問題に長年取り組んでおられます。私は、差別が報恩講のテーマになるのであろうか、と当初は思いました。
昨年12月に本廟の「お煤払い奉仕」に参加しました。その時に、2011年の御遠忌オープニングイベントに「いのちとことばの響(きょう)舞台」という差別・抑圧・同化のシンポジウムが予定され、3・11大震災で中止されましたが、非公開で座談会が行われ、『響』という本が出版されていたことを知りました。
それは、在日コリアン、アイヌ民族、沖縄、部落、の差別から立ち上がり、人間解放の道を歩み続ける人・高史明・阿部ユボ・佐喜真道夫・山本義彦との対談の記録です。宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要は、被差別者の聞法から始まったのです。佐喜真さんは、今年一月の東京教区報恩講の夕べで、「沖縄戦の図」の絵解きをされました。
文明の発展・進歩と言いながら、優劣・強弱・賢愚・勝敗・浄穣等の価値観に支配され、種々の差別を生み出している現実がある。その差別を破ってきたのは、差別されながら、自らの尊さ・尊厳を自覚した被差別者自身です。
部落解放運動の水平社創立宣言では「人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた」と。「いたわる」ことが、勦「かすめる・ころす・ほろぼし」、堕落させたといわれている。勦を「いたわる」と字訓した! !この矛盾を自覚したい。
差別され苦しむ・悩む人に同情し、慰めるという心情をもつことは当然である。しかし同情し、慰めることができる私であるか、私自身が差別し、差別されていることを自覚していないのではないか、という自問です。被差別者は自らの尊厳を自覚し、差別の根源を見つめてきた人です。その人こそ本当の人間の尊さを知っている人です。そして、私に自らの尊さを自覚しているかと問われています。
清沢満之の『臘扇記』では、「独尊子者、住無畏安不動者也。故に彼の衆を怖れ、外物に惑はさるるものは独尊子たる能はさるものなり。彼の怖惑は蓋し"自家の仏陀真人”を亡失するに起因するもの也。独尊子は"独立自在”の分を守るもの也。是れ常其に"尊貴”を失わず威厳を損せざる所以也。亦能く常其に"安泰”を持し"自適”を得る所以也独尊子を誤りて自力仏性家と為す勿れ。彼は蓋し他力摂取の光明に浴しつつあるもの也。」という。
この独尊子とは念仏者です。
人が思い、人が求める人間の存在の意味と価値は、平等に"無い"。人間の意味と価値は如来から与えられる。如来から与えられたのは平等に尊い存在である。
ここに「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教があるのではないでしょうか。日々の生活の中で、如来からいただいた尊さを生きているか、そのいただいた尊厳に背いて生きているのではないか、と問い続けたい。
合掌 南無阿弥陀仏(城南地区会・森田正治)